偽りの長方形

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登場人物
慈道
数学科の大学院生.男.コミュ障.
柴山
数学科の大学生.女.教職を目指しているらしい.

「正方形って長方形ですよね?」

「正方形が……長方形? まあ,そりゃそうなるな.長方形の定義は4つの角がすべて等しい四角形ってところだろう」

「はい.結果的にすべて直角になるわけですけど.今……というか昔からか定かではないんですけど,正方形は長方形ではないという指導を小学校でしている場合があるんですって」

「ふうん.それで?」

「なにかおっしゃりたいことがありますか?」

「……俺にまた大衆批判をさせたいのか?」

「いや,そんなんじゃなくて.数学に関してはやっぱり先輩の意見も仰ぎたいなと思いまして」

「別に,その先生が,『すべての角が直角かつ隣接している辺の長さが異なる四角形』という風な定義をすれば,正方形は長方形ではない.ようは定義の問題だ.自然数に0を含めるかそうでないかと同じレベルの話じゃないかな」

「でもとある教科書には

かどがみんな直角になっている四角形を長方形といいます

かどがみんな直角で,へんの長さがみんな同じ四角形を,正方形といいます

って書かれています」

「おお.それだったら正方形は長方形で間違いないな」

「ですけど,そのあとの練習問題では長方形を選べって問題に,正方形は答えに入っていないんですよ.ちなみに検定教科書だそうです」

「……困ったね.ま,文科省が必ず正しいとは限らないしな! 大人しく電話して図書券をもらっておけ」

「もしかしたら大人でも長方形と正方形の厳密な定義を知らないでいるのではないでしょうか」

「何度も言うが,定義は人それぞれだからな.まあ,ベクトルの内積みたいに同値な言い換えという意味で沢山あるっていう話と,自然数の0みたいに立場や考え方で含める含めないかで変わってくる話があるからなあ.まあ,俺らからすると正方形は長方形っていう言い方は明らかと思えるが,それは正方形や長方形という言葉をその言葉自身ではなく定義でとらえているからだと思うぞ.しかし,小学生はやはり言葉ありきで物事を考えるだろうから,『長』方形っていう名前がどうしても正方形にマッチしないのであえてそういう説明にしているんじゃないかな.正直,小学生の気持ちは分からないが,小学……」

「2年生で習うそうですよ」

「小学2年生に,『正方形は長方形の一種だぞ』といって,生徒に『長くないのにですか?』とか突っ込まれたとして,『定義を見ろ! 4つの角がすべて直角じゃないか! だから長方形だ!』って返したとして,それを受け入れがたい生徒は多少出てくるんじゃないのかな.集合AAの部分集合っていうのに違和感があるのと同じだ」

「小学生は生徒じゃなくて児童ですよ」

「うるさいよ.ジドウって響きは嫌いなんだよ」

「それは失礼」

「ようは,法律に触れていなければ,道徳に反することでもやっていいみたいな話で,定義に基づけばなにやってもいい,みたいな横暴さを小学生は感じてしまうのではないかな.まあ,実際は定義に基づけばなにやってもいいんだけど」

「じゃあ,定義が誤っているってことですか?」

「誤っているというより不適切というべきかな.もっともこの場合,定義というよりも言葉そのものか.結局さ,長方形の『長』がすべての元凶じゃないのか? 俺の想像では,日本で初めて長方形という言葉を使い始めた人間は,おそらく正方形を含めていないと思うんだよね.正方形に対して,長方形という言葉を作り出し,包含関係のようなやや高度な考え方までは想定していなかったんじゃないかな.やがて数学が現代的に洗練され始めて,正方形が長方形に含まれるようになったのでは.まあ,俺はそこらへんの歴史を調べる気は毛頭ないが」

「じゃあ,先輩は長方形に正方形を含めなくても,そういう考え方もあるよね,程度の立場ですか?」

「立場っていうと線引きされている感じがして嫌だな」

「長の字が元凶だというなら,長方形にとって代わる用語を先輩が考えてくださいよ」

「なんで俺が.だったら『長』をとった方形とかでいいんじゃないの?」

「……嬉しそうですね」

「んなことはない.そもそも方形って言葉あるのか?」

「ちょっと待っててくださいよ.今調べます——単に四角形のことらしいですよ」

「それに長をつけただけで,角がすべて直角であるという要素が入るわけか.これぞ論理の飛躍だな.間違いない.これは定義のせいじゃなくて日本語のせいだ! もっとまともな用語に置き換えるべきだな」

「例えばどんな?」

「少しはお前も考えたらどうだ.確か英語で長方形はrectangleっていうと思ったが,これの由来とかを視野に入れてみたらどうだ」

「なるほど.rectangleか……ちょっと調べてみますね——お,この辞書に由来も書いてあるようですね.New Oxford American Dictionaryの引用ですけど,まず言葉の意味は

a plane figure with four straight sides and four right angles, especially one with unequal adjacent sides, in contrast to a square.

とあります.つまり,『4本のまっすぐな辺と4つの直角でできた平面図形』ってところでしょうかね.『特に,正方形と対比して,隣りの辺が異なるもの』ともあります.で,下に語源があって

Latin rectus ’straight’ + angulus ’an angle’

らしいです.つまり,ラテン語の真っ直ぐという意味のrectusと角を表すangulusを合わせたものって意味になるのかな?」

「……angleだけじゃ直角的なニュアンスが入らないと思うが,このrectってのは,真っ直ぐって意味に由来するわけか……真っ直ぐ……直……おお! 柴山.気づいたことがあるんだが,直方体って直方体だよな」

「な,何いっているんですか」

「あ,いや,そのだな.直方体の『直』が『真っ直ぐ』に対応しているんだとしたら……長方形は長方形ではなく,『直方形』と呼べばそれの立体版が『直方体』になって,一貫性が出る気がしてきたぞ.rectangleの邦訳としても適切な気がする」

「なるほどー! それいいですね——今,“直方形”でググってみましたけど,先輩と同じことを考えている人もいるみたいですね.立方体は正方形に対応させて正方体と呼んでみたらどうだろう,とも書いてますね」

「おお,その人とは気が合いそうだな」

「中国語では立方体を正方体というそうです」

「よし,柴山君.これで解決だ.さっさと文科省に勤めて,学習指導要領をそのように改変してくれたまえ.相当な批難を浴びるだろうが」

「……その時は先輩も賛同してくれるんですよね.大学の教授として」

「……どうでしょうね.ところで,この手の話って数学にいくらでもあるよな.数学用語ってのはやはり我々の日常の直感に合わないものが多い.さっき言った部分集合もそうだ.部分なのに全体も部分集合というってかなり割り切った考え方だと思うんだよな.その証拠にAの部分集合でAと異なる集合は真部分集合という.ということは,Aは偽わりの部分集合という風にもとれる.また,真部分集合は英語で proper subsetという.properとは「適切な」という意味だ.裏を返せば,全体集合Aは適切でない部分集合ということになる.ただ,SAの部分集合であることの定義はxSxAが成り立つことだが,SAの条件を付加すると途端に複雑になって(xSxA)(xAxS)みたいになってしまい,理論としては綺麗とは思えなくなるよな.これは俺の主観だが.部分集合に全体も含めているのは,ABかつABA=Bを結論するような議論を頻繁に行うので,本来の言葉の意味よりも,数学者にとっての利便性を優先させた形式さが根底にある……と思う.つまり大人の都合だ.こうなってしまうと,言葉の意味は薄れていくことだろう.まあ,負の指数など,昔から利便性の追求はよくあることだが.数学を突き詰めていけば,形式さがより強まって,言葉の意味ってのはそれほど重要じゃなくなる.極論だが,例えば,数列(an)αに限りなく近づくなどの数学の言葉は,すべて論理式の書き換えでしかないからな」

「負の指数もそうですが,鈍角や一般角の三角比など,高校3年生までに色々な分野を学びますけど,そういう抽象化を学んでいけば,正方形は長方形であるという感覚が身につくわけですよね」

「形式化のことを抽象化と言っているのならそうなる.ま,それは教員を志すお前らの仕事だ.頼むから優秀な高校生を大学に送ってくれよ」

「へーいへい.ところで,真部分集合でピンときたんですけど,正方形でない長方形を真長方形と呼ぶなんてどうですか?」

「はは.意外と小学生には受けるかも知れないな.真・豪鬼みたいで」

「はい?」

「まあ,そうなると,正方形は偽りのまたは適切でない長方形という意味にとれるな」

「偽りの長方形……なんだか小説のタイトルみたいでいいですね」

「……そう?」


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