∞即是空 第2話 定義のない無限大

「無限大とはなんだ?」

「哲学ですか?」

「違う違う.数学の話だ.この数字の 8 を横に倒した記号 ってなんですかと高校生に聞かれたらどう答える?」

「ええっとですねえ,どんな実数よりも大きな……なにか?」

「なにかってなんだよ,なにかって.お前,高校教師を目指しているんだったらそれぐらいの返しを用意していないでどうする」

「そ,そこを突かれると痛いんですけど……じゃあ,逆に聞きますけど,先輩はどう答えるんですか?」

「まあまあ.正直,俺が言った無限大とはなにかという質問はかなり意地悪な質問だ.なぜならば,高校の教科書を読んでも がなんなのかはどこにも書いておらず,せいぜい読み方が記述してある程度だ.実際に教科書を見てみようか. が初めて登場するのは数列の極限でだ.ええっとだな,

n を限りなく大きすると,an が限りなく大きくなる場合,{an} は正の無限大に発散する,または {an} の極限は正の無限大であるといい,次のように書き表す.limnan=またはn のとき an

ということだそうだ」

「まあ,その通りですよね」

「で,この定義をしっかり読んでくれよ.n のとき an という記法はともかく,等式 limnan= をよーく眺めていると,本当に等式を表しているのか疑わしくなる.だって,左辺も右辺も新しい記号を表しているから,それって結局,なにも定義していないことにならないか?」

「未定義のものと未定義のものを = で繋ぐって,確かにわけわからないですね……せめて,右辺か左辺,片方が定義済みの記号だったらいいわけですね」

「ああ,百歩譲ってな.AB が等しいことを A=B と表すという約束なのに,さっきの関数と似たような話なんだが『○○となることを A=B とかく』って既に等号の本来の意味を無視して,新たな用法を付加していることになるよな.どこが厳密な学問なんだ.曖昧すぎる」

「言われてみれば……」

「この教科書の説明では,limnan= という記号の羅列は limnan= を切り離して考えることはできないひとまとまりの物体ということになるんだよ.つまり非等式さ」

「う,なんだかうまく丸め込まれそう……」

「俺は悪徳セールスマンじゃないぞ.いたって妥当なことを言っている気がするんだが」

「先輩の言うことに反論できないのが悔しいんですよねえ」

「悔しがる必要はないだろう.これが真実なんだから.ところで数列が収束する場合も同様の違和感がある.教科書を見てみよう.

数列 {an} において,n を限りなく大きくするとき,an が一定の値 α に限りなく近づくならば limnan=αまたはnのときanα と書き,この値 α を数列 {an} の極限値という.

これも個人的には非等式だ.しかし,さっきお前が言ったような,そのような実数 α のことを limnan とかく,という意味合いでこの等式を書いているのであればぎり許せるかな.実際,そういう数学書もいくつか見られる.これが次のように書かれるているのならば一切文句はない:

n を限りなく大きくするとき an が一定の値 α に限りなく近くとき,この αlimnan とかく.

この定義であれば,当然 limnan=α はれっきとした等式といえる」

「先輩の言いたいことは分かりました.質問なんですけど,limnan= が等式でないとして何か不都合はあるのでしょうか」

「勿論あるよ.例えば,limn(n2-n)=limnn(n-1)= という式変形は意味不明になる.一般に A=B=C という記号は A=B かつ B=C の略記のことだ.ということはこの式変形は limn(n2-n)=limnn(n-1) かつ limnn(n-1)= の略記と見るべきだが,上の式も下の式も等式ではない.まあ,等式かどうかは置いておくことにすると,下の式は一応定義済みの記号の羅列だからその存在を受け入れることはできるが,致命的なのが,上の式は定義すらされていない謎の記号の羅列ということだ.つまり,現段階で limn= という記号は定義済みだが,limn=limn という記号はどこにも定義がなされていないということだ」

「……考えもしない発想ですね.確かにこの教科書に書いてある lim の定義では,両辺が lim で表される等式は扱うことができない……そんな気がしてきました.でも学校の授業だとすぐ例題の解説が始まって,こういう式変形を自然にやるから,当たり前のように考えていたんだと思います」

「刷り込みというやつだ.真実を隠そうとしている」

「まーた,そういうおかみを批判するようなことを言う……やっぱり, をちゃんと定義して,limnan= は等式として扱うべきなんじゃないでしょうか」

「そういう解決策もある.杉浦光夫の『解析入門 I』を始めとする今風の教科書には,補完数直線といって,𝐑¯=𝐑{-,} という集合を考え,任意の実数 a に対して -<a< として順序関係を定義し,全順序集合としての構造を与えている.𝐑¯ の元を拡大実数と呼ぶことがある.少しマニアックな話をすると正の実数 ε に対して ε 近傍を {x𝐑¯ε<x} と定義すれば,いい感じに位相構造が入り,位相空間論でやる収束の定義で,(2n) などの数列も に収束する,という言い方が可能になる」

「でも,その手法も 自体がなんなのかは定義されていないですよね」

「そこに気付くとはさすがだな. の持つべき性質は要請しているが,それ自身がなんなのかは不明なままだ.しかし,この点はそんなに重要な点ではない.形式さを重視する現代数学では,数学で考えることができる具体的なもので,x𝐑 であれば,それを x= として採用してしまうことは容易い.例えば,公理的集合論が整備されたことによって任意の集合 x に対して xx が成り立つから,もちろん 𝐑𝐑 だ.よって 𝐑{𝐑} というもっと大きな集合を考えることができる.実数同士の大小関係はそのままで,任意の実数 a𝐑 に対しては a<𝐑 として順序関係を定義してしまえば,無限大は簡単に導入することができる」

「……結局, がそこまで形式的な存在なのであれば,最初に私が言った“どんな実数よりも大きななにか”が答えでよくないですか?」

「……言われてみればそうだね」

「ちなみに 𝐑= とするなら,- はどうするんですか?」

「例えば,{𝐑} なんかも 𝐑 に属さないし,𝐑 とも異なるからこれを採用する方法がある.気になっているかもしれないから一応説明するけど,{𝐑}𝐑 に属すると 𝐑{𝐑}𝐑 が言えてしまうが,こういった所属関係のループも公理的集合論では発生しないようになっているので,{𝐑}𝐑 だ.よって,𝐑¯=𝐑{𝐑,{𝐑}} と置いて,任意の実数 a に対して {𝐑}a𝐑 と定義すれば,a𝐑,{𝐑} とは異なるから自動的に {𝐑}<a<𝐑 となる.𝐑{𝐑}- と書くことにすれば,形式的ではあるが,我々のほしい ± が出来上がる」

「言っていることは分かりますが,なんかやっつけ感が凄くないですか?」

「やっぱりそう思うか.ならば,もう少しそれっぽい定義を後で教えよう.その前に拡大実数同士の演算についてちょっと触れておく.分かってるだろうが +=,×= などの計算規則を定義として導入するのは特に問題ないが -0× は不定形だから定まらない.つまり,𝐑¯ という集合の中に四則演算はうまく定義できない.順序構造や位相構造は自然に入るが,数が数たる所以である代数構造を崩してまで,よくわからない記号を導入することに俺は抵抗がある.これは実数体から順序構造を崩して複素数体を構成するのとはわけが違う」

「じゃあ,先輩は limnan= という非等式を使わずにどうやって正の無限大に発散することを表現するべきだと考えているんですか」

「いい質問だ.最も無難な方法は高校の教科書にも書いてあるやつを更に略記した an(n) みたいなの.はっきり言ってこれで十分じゃないか」

「等式じゃありませんものね」

は数を表すのではなく状態を表す記号,と誰かが言っていたんだが,まあ,言いたいことは分かる.n を限りなく大きくすると an も限りなく大きくなるという数列 (an) が潜在的に持っている『性質』を表したいわけだな.で,俺が思うに,限りなく大きくなってしまうという状態もしくは性質を無理に等式で表そうとするから誤解や哲学が生じるのではないかと.性質を数式で表す手段はいくらでもある.例えば,正の無限大に発散する数列全体の集合を と定義する.これは集合論で完璧に定義できる具体的なものだ.これを用いれば,数列 (an) が正の無限大に発散することは (an) とかくことができる.いたずらに等号を使う必要はないと俺は思うんだよ.まあ,これは俺が即席で考えた記号だから別に広めようというレベルのものではない」

「等式で表そうとするから,か…… をあたかも数のように扱おうとしているから案の定誤解を招くようなことになっているんですね」

「いいこと言ったな! これは俺の持論だが,人は という記号を数のように扱いたいという願望が根底にあるのではないかな.無限を使役したいのさ.超準解析といって無限小などを考えるような体系もあるらしいが,やはり無限大とか無限小といった高級な概念を代数的に扱いたいという支配欲のようなものがあるらしい.だから『=』や『-<a<』という記述をどうしてもしたくなる.導関数を dy/dx と表して,これを分数のように扱えるというアイディアも,無限小量を普通の数のように扱いたいという執着のようなものが根付いているがゆえの習慣だと思う.よく『有限の値』という言い方をするが,有限でない値ってなんだって思わないか? きっと ± のことだ.こういう面からも ± を暗に数として認知していることが滲み出ていると思うね」

「先輩的には は数ではないし,𝐑 に付け足すほどの利便性もないから無闇に使わない方がいいって立場なんですよね」

「ルベーグ積分とかをやってる人だったら とかも使いたくなるのだろうが,俺は代数の人間だから,せいぜい多項式 0 の次数を - としようかな,くらいだな.ちなみにどうしても正の無限大に発散することを limnan= と表したいならば,振動する場合の記号も用意してほしいよな.例えば…… limn(-1)n=(()) とか」

「あ,それ分かります!」

「たまに問題集とかで limnxnx2n+1 を求めよ,みたいな問題で,x=-1 のとき limnxnx2n+1=limn(-1)n 1n+1=振動 みたいな解答を見ることがある.そもそも問題設定に難があると思うが,lim という記号は振動する場合には使えないからこれは間違いだよな」

「数列 (xnx2n+1) の極限を調べよ,だったら問題ないですよね」

「そうだね.俺が無限大に発散することを で表現するのを薦める理由の一つが,いきなり lim の記号を用いると,それは収束するか ± に発散することを限定した解答になるから,あとから振動することが分かってしまった場合,途中式から lim の部分を消しゴムで消さないと正確な答案にならないという点がある.そんな面倒なことをするくらいなら,収束・発散が判定できるまで lim なしで an の式を変形して,最後に などの記号で締めるのが無難ということだ」

「毎回 lim を書くのも面倒ですしね」

「ちなみに俺は ± の記号を考えることに懐疑的な立場のように思われているかもしれないが,射影直線の話は別だぞ」

「ああ.数直線の両端を同一視して,輪っかを作るやつですよね」

「そうそう.あれは - を考えないし,定義も明確だし,無限遠点,すなわち数というよりも点として定義されているから,違和感はまったくない」

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