∞即是空 第9話 不定さがまねく大混乱

「数学は厳密な学問として認知されているが,AB が等しいことを表す最も基本的な記号 = ですらいい加減な使い方をしている」

「手厳しいですね.先輩の分際で」

「……俺が高校生の頃に首をかしげたネタがあるんだよ.exsinxdx のことなんだけど」

「ああ,部分積分を2回行うやつですよね」

「そう.この不定積分を I と置くと I=exsinx-excosxdx=exsinx-(excosx-ex(-sinx)𝑑x)=exsinx-excosx-I 2I=exsinx-excosxI=ex 2(sinx-cosx) ってなる.この式変形に一切間違いはないように見えるけどなぜか積分定数 C が出てこない.これいかに.適当な問題集の解答を見ると,2I=exsinx-excosx よって I=ex 2(sinx-cosx)+C と締めることが多い.ちょっと強引な気がするな」

「不定積分はあくまで不定だから,ある等式内に f(x)𝑑x が2つあったとしても,その積分定数は違うかもしれないじゃないですか.例えば I=exsinx-excosx-I の左辺 I の積分定数を C1,右辺の I の積分定数を C2 と置いて右辺の I を左辺に移項した場合,2I の積分定数は C1-C2 になる.だから 2I=exsinx-excosx+C1-C2I=ex 2(sinx-cosx)+C1-C2 2 ここで C1C2 は任意定数だから,C1-C2 2 も任意定数と見ることができる……」

「そんな面倒くさいことしないといけないの?」

「んー,でも結局はそういうことなんじゃないんですか.一応説明はできている気がしますが」

「等式変形をミスる高校生に対して厳しく指導する先生は多くいると思うが,I=exsinx-excosx-I という等式において,左の I と右の I が実は違う関数であるって理論をどうやれば生徒は受け入れてもらえるんだろうな.同じ記号であるからには,それはやはり寸分違わず同じものでなければならないだろ」

「そうですけど,『不定』積分ですからねえ」

「不定積分というのはその名の通り,不定さがつきまとい,解釈にも不定さが内在する.そしてそれを習慣だからという理由で,曖昧さを放置している気がする.よくないね.ちなみに無から +C を作るのは簡単だ.なぜなら f(x)𝑑x=(f(x)+0)𝑑x=f(x)𝑑x+0𝑑x=f(x)𝑑x+C となるので,任意の不定積分 I に対して I=I+C とかける.よって I=ex 2(sinx-cosx) が帰結されたのなら I=ex 2(sinx-cosx)+C と答えてもよいことになる.まあ,微積分の本質とはなんら関係のない小手先のわざだが」

I=I+C が言えたなら I を移項して 0=C となって具合が悪くないですか?」

「そこにはちゃんと教科書に予防線が張ってあって,(f(x)+g(x))𝑑x=f(x)𝑑x+g(x)𝑑x

などの不定積分の性質を紹介するページに

不定積分の等式では,各辺の積分定数を適当に定めると,その等式が成り立つことを意味している

という注釈がある.だから C=0 ととれば成り立つから問題ないんじゃないの? 俺にはもはやよく分からんが」

「つまり,I=I+C っていうのは C=0 のときにしか成り立たないから,その先輩の解答では exsinxdx=ex 2(sinx-cosx)+C における C の任意性はなくなるんじゃないですか?」

「任意性なんてよく分からん言い方をされてもなあ.まあ,お前の気持ちも分かるが.I=I+C という式変形に意味がないというのなら,こういう考え方もある.多分こっちなら納得してもらえる.まず部分積分法の公式の証明にさかのぼるんだ.教科書には

2つの関数の積の導関数については {f(x)g(x)}=f(x)g(x)+f(x)g(x) である.すなわち f(x)g(x)={f(x)g(x)}-f(x)g(x) 両辺の不定積分を考えると,次の部分積分法の公式が成り立つ.f(x)g(x)𝑑x=f(x)g(x)-f(x)g(x)𝑑x

って書いてあるんだが,端折ってる部分まで見てみよう.“両辺の不定積分を考える”ところから精密に式変形をすると f(x)g(x)𝑑x={f(x)g(x)}𝑑x-f(x)g(x)𝑑x で,f(x)g(x)𝑑x=f(x)g(x)+C-f(x)g(x)𝑑x としなければならないだろう」

「あ! f(x)g(x) の部分に +C をつけないと {f(x)g(x)}𝑑x の部分が正しく処理されてませんね」

「うん.しかし,それは -f(x)g(x)𝑑x の部分に積分定数が残ってるから省略しても支障が生じないとしているんだろう.しかし,実際に今,移項すると問題が発生する局面にいるわけなんだが」

「なるほどねー.これを利用すれば I=exsinxdx=exsinx+C1-excosxdx=exsinx+C1-(excosx+C2-ex(-sinx)𝑑x)=ex(sinx-cosx)+C1-C2-I だから 2I=ex(sinx-cosx)+C1-C2I=ex 2(sinx-cosx)+C(C:=C1-C2 2) で,小難しい考え方をせず自然に納得できそう.だけど,部分積分をするたびに f(x)g(x)+C をつけるのが面倒くさいですよね」

「細かいところを考えれば考えるほど,積分定数の存在理由が分からなくなる.積分を理解するのに積分定数なんて本質的にそんなに重要じゃないのに,省略したり“C は積分定数とする”みたいな記述がないと減点するみたいな,些細なところを厳格化するところに問題があると思うな.もっときついことを言えば,微分して 0 になる関数は定数関数しかないことを証明すらせずに,付けろ付けろうるさいよな」

「平均値の定理を使って証明するんですよね」

「ああ.それにな,教科書をよく読めば分かるが

関数 f(x) に対して,微分すると f(x) になる関数を,f(x) の不定積分または原始関数といい,記号 f(x)𝑑x で表す.f(x) の不定積分の1つを F(x) とすると,f(x) の不定積分は f(x)𝑑x=F(x)+CCは積分定数 と表される

とある.この説明だけでは f(x)𝑑x を求めよという問題は f(x) の不定積分を求めよ,という意味だから +C を付けなければならないという義務は発生しないよな.f(x) の不定積分は 一般的に F(x)+C の形で表せる,という事実が証明もなしに書いてあるだけだ.例えば3人の生徒がそれぞれ 2x𝑑x=x2+12x𝑑x=x2+22x𝑑x=x2+3 などと書いてきたとしても,2x𝑑xx2+C(Cは定数) と表されるから,どの生徒の解答も正解ですよ,くらいに思えてくる」

「確かに,教科書には +C を省略してはだめとは書いてないですね.省略してもよいとは書いてませんが」

「しかしこの説明をそのまま受け取れば,+C を書く義務は発生しないと思うがな.まあ,仮に俺が入試を受けるとして省略する勇気はないけど」

「普通,方程式や不等式を解く場合って,すべての解をもって答えますよね.不定積分もそういう暗黙のルールがあるんじゃないですか」

「それは教科書にそう書いてあるからな.つまり,方程式や不等式を解くことの定義が,すべての解を求めること,と書いてあるんだ.確か数学 Iの教科書に……

不等式のすべての解を求めることを,その不等式を解くという

とある.方程式を解くことの定義は,中学校でやったからこの教科書には書いてないが,恐らくすべての解を求めることと書いてあるに違いない」

「じゃあ,f(x) の不定積分をすべて求めよ,みたいな問いかけだったらいいんでしょうか」

「そうだな.あるいは,f(x) の不定積分をすべて求めることを積分する,という定義にしておいて,次の関数を積分せよ,みたいな問いかけにするとか.結局 +C があろうがなかろうが,定積分を求める際には必要ないんだからさ,積分定数の存在そのものを抹消した方がいいんじゃないかな.微分方程式の一般解を求めるって話をしているわけじゃないんだし.不定積分が無数に存在することを生徒に聞きたいのであれば,f(x) の原始関数全体の集合を求めよ,みたいな問題にすればいい」

「先輩のよく言うもっと集合を使おうって話にたどり着くわけですね」

「諸悪の根源は,記号 f(x)𝑑x の定義だ.今俺が読んだように,F(x)=f(x) となる関数を原始関数または不定積分といって,f(x)𝑑x と表す,という記号の導入は大問題なわけだ.だってすぐに不定積分は無数に存在するという注意がなされるのに,単一の記号 f(x)𝑑x に集約させようとしているんだぞ」

「まあでも,それ以外に定義しようがなくないですか?」

「断っておきたいのだが,現代数学において,新たな記号を導入する場合は,一意性が必要だ.そうでなければ一瞬で矛盾が生じるからだ.例えば,ある実数の集合 A に最大値が存在して,それを maxA と表すことにする.もし maxA が2つあったとして,それぞれ a,b とすると,maxA=a かつ maxA=b で,推移律より a=b とならねばならないので矛盾が起こり,俺がローマ法王であることが真になってしまう.最大値はその定義より1つしかないことが簡単に証明できるので,maxA という記号を導入することは許されるているわけだ.よく群論の最初の講義で単位元や逆元が1つしか存在しないことを証明させられる.1つしかないから,ea-1 という記法が許されるわけだ」

「そういえば」

「ということで,無数に存在する f(x) の原始関数を単一の記号で表すと矛盾が起こるので,やってはいけない」

「大学の教科書では不定積分の定義はどう書いてあるんですかね」

「本によって違う.大学では,定積分を先に定義してから不定積分を定義することが多いよな.例えば東大出版会の『解析入門 I』では,区間 I 上で定義された連続関数 f に対し,a,xI に対して axf(t)𝑑t と定義される x の関数を不定積分と呼んでいる」

「これも a の値によって異なるから不定の要素をもちますよね」

「そうだな.しかし,axf(x)𝑑x という形の関数を不定積分と呼ぶことにしているだけだから,不定積分を一つの記号で表そうって話をしているわけじゃない.セーフ!」

「なるほどね……原始関数の定義は高校と一緒ですか」

「うん.しかし,この定義だと原始関数と不定積分の定義は完全に一致しないような」

「似たようなことは私も昔考えたことありますよ.例えば axcostdt=sinx-sina はですから,定数の部分が -1 以上 1 以下の範囲しかカバーされないから,sinx+2 なんかは cosx の不定積分と呼べなくなりますね」

「そういうこと」

「ところで,『解析入門 I』には,記号 f(x)𝑑x は出てこないんですか?」

「実はある.なんと,f(x) の原始関数の1つf(x)𝑑x と表す,とある」

「……天晴れですね」

「定数項の部分は知らんが,一応記号の一意性に努めている」

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